ハーブの歴史
古代エジプト時代では
紀元前3000年頃には、ミイラ作りに腐敗を防ぐ働きを持つ
「クローブ」や「シナモン」などが使われていました。
紀元前1700年頃に書かれた「パピルスの文書」には、
アロエなど約700種類のハーブが記録され、
うがい薬や湿布などに使っていたという記録が残されています。
インドでも、
紀元前1000年頃にまとめられた伝統医学アユル・ヴェーダの書物
『リグ・ヴェーダ』に約1000種類の薬用植物を見ることができます。
古代ギリシア時代になると、
薬草による治療は、
体系化された「医学」という色彩を帯び始めます。
紀元前400年頃、
医学の祖・ヒポクラテスが「体液病理説」という考えのもと、
400種類にも及ぶハーブの処方をまとめ、
今で言う「芳香浴」の効能にも言及しています。
~ヒポクラテスの「体液病理説」~
人の体内には
「血液」「黒胆汁」「黄胆汁」「粘液」の
4種類の体液が流れていて、
そのバランスが崩れた時に病気が起こるというもの
古代ローマでは、
ハーブ・スパイスによる療法は更に進化しました。
医師・ディオスコリデスは、
約600種の薬草について『薬物誌』を著し、
16世紀まで、薬のバイブル的存在になりました。
同じくローマの医師であったガレノスは、
180年頃に500種類以上ものハーブを使い、
数多くの水薬を作っています。
なお、同じ頃、漢代のChinaでも、
漢方の基本となった本草書『神農本草経』がまとめられています。
アラビアでは、ハーブやスパイスを扱って、
ヨーロッパとの交易を独占し、繁栄を築きました。
この過程で植物両方に大きな功績を残したのは、
10世紀のペルシアの医師・
アビケンナ(アヴィンセンナ、イブン・シーナ)です。
1020年にまとめあげた『医学典範(カノン)』は、
17世紀まで医科大学の教科書として使われていました。
コーヒーの薬理効果についての記録もあります。
また、アビケンナは、錬金術の技術から蒸留方法を確立させ、
植物から精油を蒸留し、今の「アロマテラピー」の基礎になりました。
ローマ帝国の東西分裂後の
「暗黒の中世」と呼ばれるおよそ1000年の間、
メディカルハーブの歴史を伝え、発展させたのは、
「修道院医学」でした。
ドイツの女子修道院長・ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、
女子修道院を設立し、薬草学の母として
ヨーロッパの薬草学に多大な影響を与えました。
中世、スパイスは金銀と並ぶ財宝として取引されました。
特に「クローブ」や「ペッパ」ーなどは貴重で、
当時のヨーロッパの人々は産地である東洋への憧れを強く抱きました。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』は
人々の好奇心を更に掻き立て、大航海時代へと繋がっていきます。
コロンブスによる「新大陸の発見」、
ヴァスコ・ダ・ガマの「インド航路開発」など、
ポルトガルやスペインの船がヨーロッパと新大陸、
更には東洋の間を行き来し、
多くのスパイスやハーブがヨーロッパへと持ち込まれ、
スペインに莫大な利益をもたらしました。
「ハーバリスト」と呼ばれる植物療法の専門家が活躍したのも、
この頃です。
特にイギリスでは、高名なハーバリストが輩出しました。
新航路の発見により、かつてスパイスなどの中継貿易で栄えた
アラビアやヴェネツィアなどは衰退していくこととなります。
一方、ヨーロッパ各国でスパイス争奪戦が激化し、
東南アジアを舞台にした「スパイス戦争」に発展します。
しかし、スパイス戦争と呼ばれるこの争いの勝者は
フランスでした。
クローブなどの苗木を植民地である
マダガスカル島に移植するという方法で、
フランスは膨大な利益を手にしました。
イギリスなども移植を始め、
19世紀中頃には移植地での生産量が原産地を上回り、
スパイス戦争は終わりを迎えました。
19世紀に入ると、
ドイツのハーネマンが「ホメオパシー」を創始し、
ドイツのクナイプ神父が「クナイプ療法」を体系立てました。
20世紀には、
イギリスのエドワード・バッチ博士が「フラワーレメディー」を、
フランスのガット・フォセが「アロマセラピー」を
スタートさせました。
一方、1928年に「ペニシリンの発見」を機に、
自然薬に代わって、本格的な「化学合成薬」の時代が幕を開けます。
ところが、1950年頃から心の病や生活習慣病などの慢性病が急増し、
疾病率は増加の一途を辿ります。
また、1970年頃から医薬品の副作用や薬害などが社会問題化し、
西洋・近代医学は大きな壁に突き当たり、
「代替療法」が見直されることになりました。