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日本におけるハーブの歴史

スパイス・ハーブの歴史

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日本でも有史以前から人々は、
草木などを自然薬として利用してきました。
 
『古事記』には、
大国主命の「因幡の白兎」という有名な話があります。
また、『日本書紀』には
神産巣日神(かむむすびのかみ)から生まれた、
呪いと医薬に秀でた神様、少彦名命(すくなひこなのみこと)
酒の醸造法を改良して薬として使ったとされています。
 
聖徳太子は難波に四天王寺を建立し、
「施薬院」で薬草を栽培したり、牛乳から乳酪を作る製薬を行い、
推古天皇は大和での「薬猟(くすりがり)」を行うなど、
医薬にまつわる多くの記録が残されています。
 
 
『種々薬帳(しゅじゅやくちょう)』には、
正倉院に納められた「正倉院薬物」として献納された
60種類の薬物名とその数量や質量などが記されています。
 
平安時代になると、医薬に関する書物が記されるようになります。
『医心方』は平安時代の鑑定医であった
丹波康頼が984年に朝廷に献上した、現存する日本最古の医学書です。
有史以来、9世紀までの多数の中国大陸の文献を撰集した
全30巻に及ぶもので、
心身に関する医学全般の知識を結集させたものです。
 
鎌倉時代は、栄西が『喫茶養生記』を著し、
お茶が身体に及ぼす影響や働きについて記しました。
 
武士の時代には、戦乱が相次いで起こり、
創傷治療のための「金創医学(きんそういがく)」が発達しました。
 
ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教の布教を始めると、
ポルトガルやスペインから「南蛮医方」が伝わりました。
これが日本での西洋医学の始まりとされます。
 
一方、室町時代から安土桃山時代にかけて、
田代三喜や曲直瀬道三という優れた漢方医が現れ、
江戸時代に日本の医学の主流となる漢方医学の基礎を作りました。
 
幕医の林羅山が明の李時珍の『本草綱目』を徳川家康に献上。
本草とは「薬物」のことで、
『本草綱目』では
薬物の起源、鑑別、選択、薬効、臨床上の使用方法、調製法などについて
論じられています。
 
江戸時代中期には、
貝原益軒が日本独自の初めての本草書『大和本草』が記し、
明治時代に西洋の教本が輸入されるまで、
最高峰の生物学及び農学の書とされました。
また貝原益軒は、
養生についての指南書である『養生訓』も記しています。

 

一方、戦乱の世が終わって徐々に庶民の文化が確立し、
幕藩体制の定着によって町人が経済的に安定したことで、
売薬や家庭薬が発達し始めました。
 
 
長崎では、オランダ商館から輸入品として
「胡椒」「肉桂」「沈香」などが買い取られた他、
平戸には医師が在留して医療行為を行っており、
その医術が伝習されていったことが「蘭方」の始まりです。
 
シーボルトと同時期に来日したツンベルクは、リンネの弟子で、
分類学において大きな功績を残した博物学者です。
 
日本における植物学や蘭学、西洋における
東洋学の発展に寄与しました。
 
シーボルト、医師で博物学者であったケンペルとともに
「出島の三学者」と言われています。

 

 
浦賀にの黒船が来航すると、
幕府は大きな政策の転換を余儀なくされることとなりました。
明治新政府も西洋医学を採用し、
明治8(1875)年の西洋医学の知識による医術開業試験通達と
漢方医学の試験科目からの削除、
明治28(1895)年の漢方医の免許剥奪、
薬についても鑑別、品質の取り締まりなどに関する制度の整備が
進められました。
 
明治19(1886)年には医薬品の基準となる
「日本薬局方」が制定されました。
長い歴史の中で人々の生命と健康を支えてきた薬草は、
「日本薬局方」に収載されているか否かで、
法律上の薬であるか否かに区別されることとなりましたが、
いわゆる「民間薬」として私達の生活に息づいています。